Elarishio Island

賀茂川家鴨の小説王国(Elarishio Island)

最終更新日: 2015/11/8

賀茂川家鴨(2015)『』, Elarishio Island

KAMOGAWA.Ahiru's world

けもみみさんがいるよ!

【粗筋】

 色々なものを失った「キリ」は、工場へと向かう。そこで見たものは、「へんてこなもの」だった。

【本編】

「声が、する」

 砂塵に紛れて、小さな声が聞こえる。

 耳の奥で、誰かが呼んでいる。ことばにならない叫び声は、曇り空の思い出を映しだす。静寂に覆い隠された味気ない青春が、取り返しのつかない幸祥となって苦い味わいを顔一杯に広げた。

錆び付いた鉄柵は、細く頼りない。スニーカーを履いた足で蹴飛ばすと、キーン、と澄んだ音を響かせた。それ以上のものは求めていない。アスファルトの上を乾燥した冷風が、首をもたげながら吹き去っていく。

 長い髪を肩口で切りそろえて、黄色に染めた。何も変わらなかった。社会の規範に逆らい、社会から孤立してしまうだけ。失う者は山のようにあるのに、得られるモノは、何ひとつない。爪を伸ばし、黄色くした。マニキュアは臭いだけで、社会から逸脱していくための薬品でしかなかった。制服を縫製した。スカートを切って、使い物にならなくなった。あんなもの、人前で、とても穿けない。調子に乗って切り過ぎた。今はキュロット。さらに短い、女性用の洒落た短パン。スカートにしたくとも、お金がない。

 ここは何かの工場だ。何かは知らない。はじめて来たところなのだから。記憶が正しければ、あてもなくさまよい、残り少ない小遣いで電車を乗り継ぎ、行けるところまで来た。早朝の夜明けに、コンビニでハムサンドを食べてから、ろくな食事もとっていないはずだ。コンビニ、なんとなく、懐かしい響きである。

自動車もいない、歩行者もいない。機械の蠢く音だけが聴こえる。煙突より立ち上る煙は、空を雲で覆う原因なのだろうか。

「あなたは誰?」

 胴あたりまでしかない粗末な柵から身を乗り出して、消え入りそうな声で問いかける。返事はない。円いドーム状の工場らしきものは、沈黙を守っている。柵の向こうは十五メートル以上の高低差がある。ここから先は謎の工場の敷地内だ。上半身をどんどん前に傾けて行くと、そのまま溶けて消えてしまいそうな気がした。だが、この工場の秘密はまだ暴いていない。せめて、それからでも遅くはないだろう。

 海沿いのこの場所で、海も見ずに工場もどきばかりをじろじろ見物していた。曇天の海は心を締め付ける。もし、さまようだけが自分の価値ならば、甘んじて泡となり果て、消え失せようと決心しただろうに。

 社会を捨て、名前を捨てた。いまの自分に新しい名前を付けなければならない。死にかけだから、〈かけ〉をとってカケラにしよう。カケラだと言いにくいから、空っぽのカラにしよう。変な名前で格好がつかないから、一字送って、薄靄それ自体であるキリにしよう。クルでもケレでもコロでもいいが、キリがいい。いちばん、〈無〉に近い〈有〉の存在のような気がしてならないから。――本音を言ってしまえば、何でもよかった。

 街頭と植え込みしか見えない階段を下りて行く。入口と思しき「立ち入り禁止」の金網を押しのける。ここからは未知の世界だ。学校で着ていた半袖ブラウスに結わえられた黒いネクタイを結び直す。黒いカチューシャをしたキリは、異世界へと突入する。

白かったスニーカーは、いつの日か黒く染まった。紐靴はキリの足にぴたりと嵌り、舗装されたアスファルトを踏みしめる。黒革のベルトで薄いベージュのキュロットを締め付ける。短いキュロットは、スカートと同じ運命を辿り、さらに短く切られている。それでも、スカートほど酷くはない。もとが長めだったから、太腿が三分の二露出する、このくらいで普通だ。

 岐路に辺り、平坦な道を避け、坂を下りた。やがて、重々しい金属扉に出会う。プレートには、意味不明な単語が並んでいる。――ことばが脳に入って来ない。もう、後戻りはできない。前に進もう。

 ロックはされていなかった。不用心にも程がある。薬漬けにして壊してしまった彼氏は、もっと用心深かったというのに。社会から逸脱した大罪人を前にして、どうしてそこまで無防備でいられるのか。

 薄暗い室内は、黴臭かった。ポリバケツに紙屑が入れられている。触れると湿っていることがわかる用紙が束になって詰まれていた。輪転機が忙しなく動いている。ここは印刷工場なのだろうか。しかし、それでは煙突から立ち上る煙の説明が付かない。

 蕩けた脳味噌も、もとは天才、柔軟な思考くらい可能だ。この世界は公害で満ち満ちている。社会は既に、正常なことが逸脱であるように見せてしまうほどの技術を備えてしまった。この世界は、ほぼ、死んでいる。

「わたしはキリ。あなたは、輪転機?」

 輪転機は、黙々と印刷を続けている。

 キリが拗ねたように後ろ手で交差させ、右足を振る。ゆらゆらと揺れながら、顔を俯けて吐息を漏らした。

 ぐにゃり、と歪んだ彼氏が、キリを下から覗いている。「どうしたの?」と、問いかけてくる。幻覚だ、彼はもう壊れたはず。彼氏は、姿は自分とどこまでもそっくりで、性格は――かつてのキリとは違い――どこまでも正反対だった。いつも気を遣ってくれる。優しさを受けても、突っぱねてしまう自分がいた。それは嫌なのに、頭がくらくらして、うまくいかない。

 いや、今なら上手くいきそうだ。ぎこちない笑顔を浮かべて、幻覚と解っていながらに、きゅっ、と、抱きしめる。

「残念! そこには何もいないや」

 細身の道化師が玉乗りをして、アコーディオンを演奏していた。

「ヤア。これまた、小さなこどもだねぇ」

「あなたは?」

「私は、キミが生み出した幻想でありながら、真実でもある。道化師とでも呼んでくれて構わない」

 道化師はクネクネとゆらめきながら、奇妙なお辞儀をした。一枚の長い紙が、風に煽られながら頭をもたげているように見える。

「ふうん。あなたの名前なんか、どうでもいいわ。ここは何?」

「ここには秘密がたくさんある。謎は自分で解明するものさ。知りたければ、聞き出せばいい」

 顔面を真っ白に塗り、目の周りには黒い星を上塗りしている。唇は真っ赤に染まり、瞳は、鋭い先端を下向きにして、人間のものとは思えない半月形に歪んでいた。靴先の尖った橙の靴を右足に、同じ黒の靴を左に履いていた。スラリとした長い足を器用に跳ねさせ、彼の膝丈ほどもある桃と緑の縞模様の球に乗っている。道化師がアコーディオンを鳴らし、傲然とふんぞり返っていた。

「あなたは、楽しそうにしているわね。へんてこな道化師さん。けれど、世の中が醜いとは思わないかしら」

 橙色のアフロの上には、向かって右は橙、左は黒と、身体の中央ではっきり分けられた、尖った帽子を被っている。襟に黄色い襞の着いた黒のボタン留めがついた服も、向かって右は橙、左は黒に分け隔てられていた。道化師だけが、周囲の景色から浮き出て見えた。

「外と比較してごらん。世界中の工場は、薬品に塗れた死の煙を吐き出している。でも、ここは、違う。この工場は楽しいおもちゃがたくさん造られているのさ」

「そう。外のことはよく知らないわ」

「外から来たのに、かい? 嘘はよくないなあ」

「わたしは、もとからここにいたのよ。だから、外の記憶なんて頼りにならないのよ」

 道化師は鼻でフン、と軽蔑したように笑うと、幼い子をあやすような優しい声で語りだした。

「それにしても、こんなところに迷い込んで、迷子かい?」

「違うわ。自分から迷子になったのよ」

 キリはむっとして反論した。

「ナンダァ、随分と変わり者だなぁ」

「変わり者はあなたのほうよ。ここで何をしているの?」

「何も。何もしないことを、しているのさ」

「やっぱり、あなたって変わり者よ」

道化師は不思議そうに、首を傾げる。道化師の首は長く伸びて、頭が地面を跳ねた。アコーディオンから手を放し、地面で木葉微塵になる。

「無気味ね」

 キリは驚くこともせずに、道化師の頭部を見下ろした。

「酷いなあ。ま、自分でも不気味だと思うけどさ。でも、無気味だと思えるのは、比較するものを知っているからだろう?」

「わたしと比較したら、とことん醜いわ」

「ああ、こどもは率直で、恐ろしい。そんな貴方に警告、今すぐここから帰ったほうがいい」

「どうして」

「おやおや? ここの労動者はもっと素直で、聞き分けがいい。貴方も見習ったらどうか?」

「ベルトコンベアーや輪転機のように従順な者は利用されるだけよ。わたしは利用する側になるの。だから、あなたをとことん利用してやるつもりよ」

「大人びているねえ。だからこそ、帰ったほうがいい。ここに来るのは早すぎる。永遠に来なくてもいいくらいだ。私がどれほど陽気で楽しいと主張しても、工場労動者は陰湿でつまらないと文句を言うのだから。もちろん、私は陽気で楽しい気分で、こう言うだろう。『文句を言う暇があるなら、働け!』」

 道化師の怒号とともに、工場は不満の頂点に達し、爆発した。キリは燃え広がる炎に腰を抜かし、慌てて逃げ出す。もと来た道を走るが、どうにも進んでいる気がしない。

武器庫が爆発して、銃が宙を舞い、銃弾が飛び交う。

「よっ、と」

キリは、くるりと一回転して銃弾を華麗にかわす。

さらに奥へと走ると、怪しげな〈何か〉が製造されている。

 この工場は、死んでいる。世界と、同じだ。

キリはようやく工場の外に出た。舌を唾液で湿らせる。暗いビル街は、砂塵に埋もれて廃墟と化していた。ふと気付いたことがある。キリ自身が狂っていたのだ。いや、彼氏も狂っていたのかもしれないが、今となっては、わからない。少なくとも、キリが狂っていることを確認できただけで満足だ。

砂塵を吸い込む度に意識が遠のく。幻覚が見える。頭痛がして、吐き気がする。キリは塵になった自分を思い浮かべた。まるで、薬に漬けられているようだ。記憶の彼方にいる彼氏のように。

 キリが倒れるとともに、工場から声が降り注ぐ。

「おめでとう。貴方はまた塵になったようだね。ところで、これは何回目だい? 一体、いつになったら貴方は狂気から抜け出せるのだろうか。利用されることを拒んだ貴方は、誰からも利用されずに、工場労動者と同じようなことを繰返している。はじめは素直になるのに、どうして、いつも、こうなってしまうのだろう。はあ……、これで何年目だい? 貴方の彼氏はとうに死んでいるだろう。貴方はどうして生きているのかな? おかしな公害物質でも吸い込んだのではないかな。そもそも貴方は生きているのかな。生きた人間には見えるけれど、ウーン、着替えたらどうかね。それはそうと、工場も修理が終わったところだ。そろそろ起きたらどうだい。おっと、今までのことは企業秘密だから、水に流してもらおう」

 無名の少女は命令を受けて、再びその身を起こした。

「誰?」

 少女は辺りを見渡した。

 ぼんやりと頭に浮かぶ人物は、もやもやとした砂塵に塗れている。彼氏だろうか、薬漬けにしてしまった。どうしてこんなところに来てしまったのだろう。不幸が重なりすぎて、覚えていないのかもしれない。

 大切なモノを、失ってしまった。少女は項垂れながらも、目につくものを探した。

「声が、する」

 砂塵に紛れて、小さな声が聞こえる。

(了)